(1 of 2)人生はまるで舞台演劇のようですね

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借り物のカラダ

もう30年も前の中学生の時,ある決定的なイメージを見せつけられたことがありました。

自宅の居間でくつろいでいると,なぜか急にふわりと体が浮いたような感覚になって地球全体が見える視点になりました。すると「このカラダは一時的な借り物だから,いずれは脱ぎ捨てるのだよ~」「ほら,こんなに狭い地球なんだから,みんな仲良く生きなさいよ~」というイメージが意識全体を包みました。

今考えても不思議で仕方ないのですが,その時は完全にカラダが動かなった記憶があります。言語化すると単純ですが,実際にはもっとたくさんの情報が意識の中に直接投入されました。その後,宮沢賢治の童話や詩がそのイメージに極めて近いこと気づき,その数年後,岩手の大学に進学することとなったのです。

タマシイと私

「春と修羅」の冒頭にはこんなことが。

春と修羅

宮沢賢治

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

人は誰でもある意味で電気的なタマシイで駆動されており,それはどんな生物でもそうであって,世の中のあらゆるものが振動数のある現象であると。宮沢賢治の話には独特の言い回しで,タマシイは不滅で輪廻すること,動物や植物にも意識があることや実は見えない世界がそこら中にあることが何度となく表現されています。まるでオカルトのようですね。でも,私にはどの話もスッキリ入ってくるものでした。意味不明な用語も多のですが。。。

不思議なできごとから30年後,人生の折り返し地点になって特大の病気になったわけですが,これによって見えない世界のできごとに敏感になってきている気がします。今の国立大学の教員という立場でそのようなことを公言するのはリスクがあるわけですが,事実なので仕方ありません。

舞台役者になる

「人生という舞台」とはよく言いますが,人生というのは舞台役者として立ち回ることとほとんど同じのようです。今出会っているすべての人たちは,まさにライトアップされた舞台で一緒に出演している共演者たち。私のように,舞台出演中に突然お腹が痛くなってしまう人もいますが。観劇しているのは,出演者に馴染みのあるタマシイやこれから出演を控えたタマシイたち。たくさんの神様たちもちゃんとがんばっているかどうか見ています。

それぞれの配役や仕事はあらかじめ決まっています。裏方として舞台を支えたり,群舞で盛りたてる人たちがいれば,他の人よりも目立ちながら主役をはる人もいます。共通して大事なのは,自分の役割をきちんと果たして,共演者たちとしっかり舞台をつくりあげること。ズルをしないで堂々を演じきること。

出演者と観劇者

配役によっては,少しだけの出演だったり,ずっと舞台に出ずっぱりの人もいるでしょう。でも,どんな配役でも舞台にとっては重要です。みんな大事。ピクリとも動かない配役も舞台を彩るには必要なのです。

舞台で起きた突然のトラブルをどう解決するかは,役者同士の連携や機転しだい。前触れもなく舞台装置が壊れたり,思わぬタイミングで誰かがセリフを忘れたりするでしょう。そこで,絶対にやってはいけないことは,舞台上で喧嘩をしたり誰かを悪者にしたり,途中で投げ出して突然降板しまうこと。どんなことがあっても,舞台にいる間はしっかり演じ切らないといけません。

現実の人生においては,自然災害・事故や病気であるかもしれません。仲違いして喧嘩や戦争を起こしたり,自殺をしたり。。。そんな姿を親や仲間がいる観劇者に見せるのはちょっと恥ずかしいものです。もしかしたら,舞台監督が出演者の連携を試すためにちょっとした舞台装置の故障をわざと仕組んだかもしれません。舞台をはじめる前は,みんなで成功を祈ってはじめたのに,舞台上でゴタゴタしたのでは観劇者をがっかりさせてしまいます。

今の舞台が終われば,早めに出演を終えた人や観劇者たちと否が応でも会うことになります。せっかくの舞台の機会はきっちりやらないといけません。なぜなら,誰でも舞台に上がれるわけではないからです。そう,自分で出演を熱望して,すっかり張り切って出演したのですから。

(つづく)

 

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