【スクリプト】知的障害と肢体不自由のある子どもに視線入力は有効か(後半部分)

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左から,中邑さん・金森さん・福島さん・伊藤

2020年11月14日実施
日本特殊教育学会自主シンポジウム

知的障害と肢体不自由のある子どもに視線入力は有効か

〜本当に本人の意思を反映させるために〜

企画者:金森克浩(日本福祉大学)
司会者:金森克浩(日本福祉大学)
話題提供者:伊藤史人(島根大学)
      福島 勇(福岡市立今津特別支援学校)
指定討論者:中邑賢龍(東京大学)

文字起こし:岩崎允宣・堀江駿介・奥井だいき(島根大学)
校正:伊藤史人(島根大学)

(シンポジウム前半の話題提供部分は省略しています)

一部,聞き取りにくい部分は大意を変えない範囲で表現を変更しています。

<中邑> 1:00:06

このセッションは,福島さんの動画に出ていたご家族の方は聴いておられるんですか。

<福島>

何名か聴いていると思います。

<中邑> 1:00:14

聴いているとしたら,あんまり嬉しくないんですよ。多分,今日の話を全否定するかもしれない。僕は今,それぐらいに非常にモヤモヤして嫌な気持ちに溢れているわけですよ。

どこが問題かというと,目で追従することと認知は違うということです。これは,はっきりしていることなんですね。全く理解のない人でも目は動く。赤ん坊だってそうです。やっぱり,人間の顔を追従する。そのように生得的な機能が備わっていて,動くものを追おうとする。これは,ニューロン…そういうものがあるだけという話です。

あるものが好きであるとか,あるものを追ってるというのは,全く別けなければならない。だから,視線入力装置をこういう子供の臨床に使うというのは,非常に危険であるという風に思っている人間なんですよ。

風船割りはできるわけです。自然と風船を追っていくためです。これは,意図的にやっているように見える。だけど,その先の文字の選択というのは遥か,遥か,遥か向こうのことであるということなんですよ。

その前に,表象機能象徴機能の発達という。いわゆる認知の発達が行われなければいけない。だから,ここでスイッチが目が動かせるようになったのに,どうして教育できないんだって先生方に言われても,先生方も困るし,絶対これはできない。これは限界がある。だけど,テクノロジーっていうのはこういうものを見せてしまうという恐ろしさがある。

福島先生と昔からやってるけど,先生は昔と全然変わってない。僕も昔は同じような考えを持っていた。でも,反省する。福島先生とやっていた時期にこういう動きを繰り返せば因果関係が理解できると思っていたけど,それは間違い。30年前の僕は,間違っていた。

ここはもう少し冷静に考えて行かないといけないと思うんですよ。だって,追視は注視の反映に過ぎない。だから,最重度の知的障害の人たちを見てください。彼らも何かあったら首を動かすし,手を伸ばす。やっぱり,好きなもの・目指すものに行く。だけど,それが好きか嫌いかっていうのとこれは全く違うっていうことなんですよ。

追視が上達する可能性はあります。普段動かしていないから。だから,成績が上がるということは当然,起こってくるわけです。後で,先生方の反論を受けようと思います。

伊藤先生の青森の子供さんのケースですけど,算数のドリルができるようになった・文字の入力ができるようになった・名前が打てるようになったっていう場面を僕は見たい。その時に親の介入はなかっただろうかということです。ここは非常に重要なポイントだろうと思います。文字の教育を受けいていない子供が,いきなり視線入力装置を使って文字を打てるようになるということはまず,ない。

これは,ファシリテイティド・コミュニケーション参考1参考2)と言って,いわゆる最重度の脳性麻痺の人を膝の上に抱っこして,文字盤を置いて,手を持てば,指が動くというBiklen参考1参考2)が行ったこと。これと全く同じ現象が視線でも起こってくるっていうことなんですよね。だから,こういうことの検証っていうのは,第三者が行く。私が行って,その場でこういう文字を打ってくださいって行ったときに打てるかどうか。いや,この子は自分で考えて,先生の言っていることはわからないんです。これだとまず,文字の獲得はできていない。文字っていうのは,言語っていうのは,音から獲得していくので,この辺を検証していく必要があるなという風に思っているんですよ。だから,これ(視線入力装置)が全国の特別支援学校に入っていくっていうのは,僕は体を張って,先生方と戦っていこうと思います。

学会というのはそういう場所だと思うので,いつも特殊教育学会で酷いことばっかり言ってるんですけどね。朝の会なんかやめちまえみたいなことをね。だけど,それは本当だって僕は思っているわけです。

福島先生が,右足が動く子供がこれ(スイッチ)を使って車いすを動かせる。これはそうだと思います。因果関係理解のできている子であれば,意図的参加が可能。このレベルの子っていうのは,ある意味,認知的にかなり発達している子です。で,アイドルを見たらそっちを見るとか絵を描くというのは,追視。絵を描くっていうのは,何もなくても眼振や不随意運動で描ける。これが本人の意図かどうかっていうのは,全く違うということですよね。

マッサージやマスクこれをやっていて,肩たたきをすると素晴らしい。確かに素晴らしいって因果関係理解のできている子っていうのは,それをやると親が喜ぶことを知って,またやろうとするという子は意味がある。でも,そうじゃない子っていうのは,役割理解ということがとても難しい。役割を理解させるこれは朝の会で挨拶をすることと同じくらい難しいことですよ。全く意味がない。これは,子供が寝ている子の手を取って,おはようと挙げさせることと実は変わらないんじゃないかと僕は思うわけです。

これをね,親御さんが聴いたらショックを受けられるかもしれないと思うことがあって,だからこの場ではやりたくない。専門家が入ってクローズで議論したうえで,ちゃんと返して行くべきだと思っていますが,今日はしょうがない。だけど,ここの部分が今の特別支援教育の限界なんだと思いました。

今日は,金森さんが指定討論者になったほうがいいかもね。

<金森>

なんでぇ…。

<中邑> 1:06:55

みんな,わからなくて困っているんですよね。本当に。だから,先生方も朝の会をやって,苦し紛れに「はーい」と返事をし,眠っている子供を抱えて歌うっていうことをしなきゃいけない。だけど,一所懸命にされているわけです。だけど,疑問を感じている。このままでいいんだろうか。無気力になっていく人もいる。だからこそ,視線入力装置に飛びつくっていうのはわかるけど,違う。絶対。動きがはっきりしたらいいなぁというのが,そこの上に出ているだけです。

<中邑> 1:07:31

動きをスイッチで捉えて,おもちゃを動かそうっていうのは,福島先生と私がアメリカから持って帰ったスイッチを全国に広めようとしたっていうのがあるわけです。

動かせた喜びっていうのはあったけど,子供がどれだけ喜んでいたかっていうと,当時は今ほど認知のレベルが最重度の子がいなかったから,結構わかる子がいたわけです。金森さんも一緒にやってきて。今は状況が違う。そのレベルの子は通常級の方に行ってしまっているから。

この前,お医者さんと話をして面白かったのは,なんか反応をみたら「快ですか不快ですか」って医療関係者が言う。なぜかというと,注射したりしたときにこれはいいだろうか,痛くないだろうかということばかり医者は求める。実際に,GoogleのAIを使えば快・不快の判定はある程度できるようになっている。それは快か不快かわかりませんよ,僕らが教師データを与えた通りにある程度判定できるようになった。だけど,すぐお医者さんは快か不快かを言う。そんなことわかんないと言うもん,皆さんもわからないと言った方がいいですよ。快か不快かなんて重要じゃない。教育は一体何を求めるのかということですよね。教育は子供の動きをどう利用すべきかっていうことを考えなきゃいけない。

<中邑> 1:09:02

快や不快,Yes/Noということも大切だけど,これはすごくレベルの高いことなんですよ。認知のレベルが高い人じゃないと,はっきりわからない。経験をたくさん積まないと。Yes/Noなんて,表象機能・象徴機能が発達していない子は,無理。で,そうではなくて刺激・反応という割り切りがもっと大切であるということです。だから,子供の発達ステップに合わせた介入をしていかなければいけない。表情から快・不快という意味づけをすることを避けるのではなくて,音が聞こえたらこの子は反応する。この刺激と反応の関係から意味を推測するぐらいしかできない。だけど,この推測することを繰り返していくと実は,子供の秘めている能力が明らかになる。視線入力装置では,明らかにならない。この反応と応答の関係を組み合わせる中で,僕らはパズルを解いていくっていう。それが教育の専門家,専門性であるということです。

<中邑> 1:10:12

例えば,音楽を聴かせてこちょこちょすると喜ぶ子供がいますよね。刺激が入っているかどうかというのは,何もしないで観察しているとわかるということです。刺激が入ったら,ウッと定位反応がある。音は聞こえているとか,振動は入っているとかいうことが観察すればわかるということです。どの刺激が有効かっていうと,音楽だけ聞かせるとか振動だけ与えてみるとか,色々試してみると有効なものがわかる。刺激に対する要求があるこれは,注意のかなりレベルが高くなるわけですけど,キャッキャキャッキャやっている時にピッと止めてみる。その時に,「おいっ」って動きが出るかどうかという。これが,実はコミュニケーションなんだということです。この応答関係が。

音楽が来るとこちょこちょが来るという予測があるかっていうのは,待ってみるといいですよ。音楽を聴いてもこちょこちょをしないと,「おや」っとまたでるか。その要求が誰にでもわかるか,人を交代してでもできるか。で,わかりにくいなら,わかりやすくするというのがICTの可視化というものが出てくるわけです。それで僕たちが使っているのが,OAKという動きを加算する装置。別にこれがあるから何かをしようというわけではない。これはあくまでも僕たちがわからないから,それを見て反応を明確にしようというだけなわけです。で,ここの部分をしっかりと押さえて視線入力に入っていくというのは,わかる。でも,ここがごっそりと抜け落ちているんですよ。全く意味がないとは言いません。追視の訓練もできるし。もちろん,何パーセントかは潜在能力があるにも関わらず,幼少時の経験がなくて抜け落ちている子供がいる。だけど,これは非常に少ないと僕は思っています。先生方は,ほとんど全員がそう思っていると思うけど。ここを埋め合わせていかないといけないんです。何度も言いますが,注意と認知は違うということです。追視と認知は違うということです。

<中邑> 1:12:38

昔からこのFC(Facilitated Communication)は,危険だと言われていたんです。抱っこして,手をもったら,文字盤の上を手が動くっていうね。僕も多分,子供の動きを感じるような人間なんです。自己暗示にかかりやすい。子供の動きだと勘違いしてしまって,解釈するっていうことを僕もやってしまうような人間ではある。これは決して意味が無いわけではない。主観的解釈というのは子育てでも非常に重要。これは伊藤先生も仰っていた重要な部分だと思うんです。この子はこれができるって思うことで,関わろうとしていくという。だけど,それはある程度僕たちがシナリオを描いた上でそれをお母さんたちがやっておられるのを今こうやって関わって,いい関係ができているなってのを見ていく必要があるし,我々は専門家として違った視点から,もう少し客観的にこのやり取りを形成する技術をもっていかないといけない。

テクノロジーによる運動可視化の恐ろしさを僕は今日みたと思っているわけです。これは前々からおかしいんじゃないかと,福島先生に早く会いたくて去年からおかしいんじゃないかって言いたいと思っていた。すると,金森さんがそんなことまぁ,今度企画するからって言ってそれで今日,この場があるわけです。で,最新の技術故にそれが真実だと信じてしまいがち,親はそうですよ。動きを期待しているから。サッと出るから。だけど,それが意思を示すものではないということです。僕たちはあくまでも,刺激反応から類推するしかない。テクノロジー無しでも最低限のコミュニケーションはできておかないといけないということです。僕が言っている知見・知識を持っている人が視線入力装置を使って行くなら,100歩譲ってあるかもしれないけど。追視と注視と認知と注意と定位反応,この辺がきちんと理解できてないと。あと,表象機能・象徴機能も。これを理解しないまま入って行かないというのが僕の考えです。

<中邑> 1:15:04

なぜ,ICTが動きを可視化しなきゃいけないのか,動きを取り出せることに意味はあるのか,取り出せたとしたらどんな風に活用するのかという。この辺の所を説明できなきゃいけないと思う。ただ凄いとか,ゲームができた。ゲームができているわけではない。見えているだけです。で,認知の発達,表象機能・象徴機能に重い障害がある子供へのテクノロジーの活用と軽度の子供のそれとは別けて考えなきゃいけない。重度と軽度に差があるわけじゃないんですけど,基本的には,表象機能・象徴機能の辺りが育っているかどうかというところをしっかりと,立ち止まら無ければいけないということです。

教育の介入っていうのはやっぱり,長期的視点と総合的な視点が必要。だけどいま,文科省が酷いよね…評価評価ってね。そんなもんすぐ評価なんかでるもんか,馬鹿野郎って本当にみんな思ってると思うんですよ。毎回毎回,書類出させやがってっていう。だから,短期的にすぐ動いたっていう。動くことに意味なんかあるもんか。そうじゃなくて,子供のステップに合ったやり取りを作っていけるっていうことに親も先生方も喜びを見出していくと,もっとわかりやすいことができて誰もが楽しみにできる。ここに立ち返って頂きたいなっていうのが僕の意見です。

<金森>

もういいですか?

<中邑> 1:17:00

もういいね。議論した方が絶対いい。

<金森>

ありがとうございます。何か今のことについて答えて貰うという感じでいいでしょうか?

<中邑> 1:17:12

そうですね。伊藤先生の青森のケースについてどうなんでしょうか。

<伊藤>

はい。ドリルができたのは,あくまで教員がやっているものです。聞いてみると,かなり前からお家で教育はしていたんです。なので,お母さんはずっと教材を使ってやっていた。学校でやらないので。恐らく,ずっと見ていて,自分でなんとか理解しようとしたんじゃないか。で,小学校1年になった時の担任が今までの人と違って,この子はわかっているのかも知れないと思ったらしいです。そこが効いてきた。じゃないと,ほかの担任だったら,そもそも私を呼んで視線入力やスイッチをやることはなかった。そこで手に入れて,表出する機会がでてきたのかなと思います。

<中邑> 1:18:03

実際にそれで,そうですかって思いたい所ですけども。ここでやっぱり大事なのは,第三者がやりとりしてどこまでできるかっていう。本当に申し訳ないけど,僕たちは専門家として見ておく必要があるなと思います。

<伊藤>

今日は凄くうれしくて,否定されることは大前提で来ました!

どう否定されるのかという風に思っていました。そもそも,コメントしてもらえないかもと思っていました。

<中邑> 1:18:34

それはないですよ。

<伊藤>

視線入力装置を使っていて,技術のことはわかっている分,それが必要ないところの部分を増幅しているんじゃないかなという思いはありました。風船割りですけど,風船を動かさないで,固定して。固定した状態でも風船を見れるかどうかという工夫も行っています。

今のところ,やはり,視線入力装置の可能性っていうのを感じています。中邑先生のお話を聴いて,認知面の勉強が不足していたと思いました。なので,そこの部分を押さえつつ頑張っていこうと思いました。

<中邑> 1:19:24

100%否定しているわけではないんですよ。

<伊藤>

あえて仰られている部分もあると思います。確かに,言葉は悪いですけど,ぬか喜びをしている現場っていうのは多いかなと思っています。

<中邑> 1:19:37

そこ(視線入力装置)に行く前にもっと手前のことの押さえをやっていくべきだと思っているんですよ。そこはテクノロジーじゃないんですよ。歌を歌うという1つのことにしても,歌い方を変えたら子供の反応がどう変わるだろうかっていう。それは,止めるとか待つとかという変化に対する反応を押さえていく必要がある。

そうしている中で要求が出てくる。飲み物ですね。僕がよくやるのは。いつも同じ飲み物ばっかり使ってお茶か水かスポーツドリンクか。ブラックコーヒーや炭酸水はないのか。親の協力を得たらできますよ。好きなものしか入っていないから,なんでも飲む。注意しなくなるわけですよ。時々苦いのが来るぞっていう。コーヒーはいいですよ匂いもはっきりしているし。これが来たら苦いのがくるという拒否の反応が出だす。これが教育だと思うんです。

つまり,ことなかれでうまく回って元気に過ごすということに終わってしまっている。そうじゃないですよ。

運動会も昔,福島先生と色々考えてやったけど,派手なことだけじゃなくて,飲み物飲んでみようと言ったときに「う”ぅ”」ここで喜ぶべきですよ。パン食い競争ならぬ,飲み物発見みたいな。そういうことに喜びを感じて積み上げていけるような教育っていうのがお母さん方とできたらいいなぁということを最近,僕は強く思っているんですよ。

<金森>

去年の特殊教育学会のシンポジウムの話ですよね?

<中邑> 1:21:42

そうですね。

<金森>

資料を去年頂いたんですけど,どっかで公開したり学校で配るという風にはならないんでしょうか?

<中邑> 1:21:57

どこにあるんですかね。あれはね…。

僕は大体,言いっぱなしですからね。ATACカンファレンス…ACオンデマンドの中で言っていることもあるかもしれませんね。

<金森>

ありますね。

中邑先生の動画のやつですね。

<中邑> 1:22:18

また今年も12月のATACカンファレンスでやります。そこでまた派手にこういう問題へ突っ込んで行こうと思うので,良かったら来てください。

<金森>

福島さん,先ほどの賢龍さんのご指摘のところで思うことを言ってくれますか。

<福島>

そうですね,いろいろと考えたんですけども,昔から賢龍先生がよく仰られてたのがこの子たちの時間がないっていうことを仰られてたじゃないですか。たかだか12年間やっていってそれが終わっちゃうと社会に放り出されてしまって,それまでの間にやっぱり社会で身に付けておかないといけない中で社会参加できるとか活動できる,そういった術を学校の間に身に付けていかないといけないよねなんて話をしてたじゃないですか。先ほど賢龍先生も言われましたけれども,今の重度重複障害の子どもたちって本当に重度なんですよね。だからすっごく時間が掛かると思うんですよ。一つのことをやろうとするとですね。

先ほど言われていたみたいに,歌の聴かせ方を少しずつ変えていこうねぇなんてやっていきたい。それをやるべきだと僕も思ってる。それで反応が出るまでにものすごくやっぱ時間が掛かってる子たちっているんですね。

例えば,重度重複障害の子どもたちの中には病弱な子どもたちもたくさんいます。さぁやろうって月曜日火曜日できたけども,水曜日からすごく具合が悪くなって一週間入院しちゃったとかですね,そんな例がたくさんあるんですね。

そうなってきた時にやっぱり一旦やり始めたことがすごく分断されてしまって,また一年終わってしまったなぁと思ったら今度は担任の先生が変わるとかクラスの子どもたちが変わるとかですね。なかなかそういう継続性がうまく繋がらないというのも学校の今の置かれている現状の一つなのかなぁという風に思ったりしてるんですね。

<中邑> 1:24:29

あの,彼らを社会に出そうなんて僕は思ってない。そんなことを目標にはできないと思ってて,だけどその子らがいわゆる僅かな意思でも表出してるていうのがきちんと毎日毎日捉えられる日や捉えられる環境の中で彼らが生活できるっていうことが僕は重要だと思ってるし,それが積み重ねた結果,なんか次のステップに進む可能性がある。それは分からないけど,だから先生たちが日々関わってその子が喋れるようになったということを目標にやっぱできないし,実際,必要な願いとか本当に書きにくいですよね。

だけど日々やっぱりこの変化に対してこんな風に反応したっていうことを僕は楽しんでいく。お母さん方とか。このことこそが重要なんだろうなって思うんですよ。だから1年間変わってませんでもいいと思うんですよ。だけど先生たちは誰が考えてもベストなやり取りをしている。変わったのは何かっていったら,今まで3種類の飲み物しか飲まして無かったのが今年は100種類飲ましてみましたっていう。

そうすると,牛乳が好きだと思ってたけど変化してきましたとか,このことですよね。それが少なくともみんなには分かるっていうことが大切なんだろうと思うし,彼らが施設や病院であるいはご家族とともに生活していく中において大切なことなんだろうと思うんですよね。

だから先生,僕らは昔すごいことを狙いすぎた。その頃は経験をたくさん積ましていくことによって社会に結びついていく子がいっぱいいた。いっぱいとは言えないけどたくさんいた。

<福島>

パーセンテージとしては僕もそれはそうだなと思うんですけども,昔もやっぱりこういう子たちって結構いたんですよね。その子たちにもやっていって,その経験って僕はその子たちの卒業後の暮らしのなかですごく生きてるんじゃないかなということを聞くことがあるんですよね。

先生,あの時こんなことをやってその当時はしゃべれなくて文字も書けなかったような子が,まあ理解はしていって活用しながらそれができるようになっていって,やっぱりああいうことやってよかったよねって話もするんで,僕はこの子たちに視線入力に限らず自分でできることで何かこう周りが変わるようなそんな経験っていっぱいさせたいなと思うんですよね。それをダメだっていう風に言われてるんですよね。

<中邑> 1:27:29

福島さん,それは思うけどできない子がいる。

<福島>

それって,経験をしたことがないからできないじゃないですか。まずは経験させた方がいい。

<中邑> 1:27:39

だけど何を経験させるか,そこのとこ。

それが視線入力なのか,だから音楽を聴かせるとか。

<福島>

視線入力をさせるんじゃないですよ。視線入力をした結果を子どもたちに体験させたいんですよ。

<中邑> 1:27:56

要するに,バイオフィードバック的に運動のフィードバックをかけたいってことですよね。

だけどそれは認知のレベルが低い子にはとても難しい,フィードバックがかかりにくい,先生。それよりも飲み物を拒否したらそれが来ないとか。

要するに直接的にこう好きな音楽でぐっとやったらもっとやってもらえるとか,何もしないと終わってしまうとかっていうもののほうが分かりやすいわけですよ。同じ経験させるならもっと分かりやすいことをやったほうがいいし,それは人間がやった方がいいに決まってる。

<福島>

それを全部の子どもがですね,学校に来て学校から帰るそれまでの間ずっとはできないじゃないですか。それで時間割予約があったりしますよね。

<中邑> 1:28:47

ずっと一緒に昼寝してればいいですよ。昼寝して観察してたり。本当にそう,それぐらいしかできない。それを無理やり授業作らなきゃいけないと思っているのが間違いであって,1日3時間でもいい,その子らが調子いい起きてる時。

<福島>

その調子いい起きる時間がやっぱりすごい短い子どもたちもいたりするんですよね。

<中邑> 1:29:09

だけどね先生,目を動かしているのを自分で感じる?俺いま右見てるとか左見てるとかさ。すごい難しいよ。目の動きを,僕らが自分の目を動かしたからこのテレビがこうなったんだって感じるの。ここの動きでさえ分からない。とてもフィードバックとして子どもに入りにくいものなのよ。

目を上に見たらピュー⤴って音がして,下見たらピュー⤵って下がるっていう,これにしたってとても難しい。最重度の知的障害のある子がそこの理解ができるとは思えない。いくらやったって。

フィードバックがうまくかかるかどうかっていうのはテクノロジーを使う上でのポイントになります。まだ運動のほうがいい。

<福島>

この日本でこんなことをやり始めてまだ30年ぐらいじゃないですか,実際の支援学校の中で。まず時間が短いと思うんですよね,それを判断するには,僕は。もうちょっと時間を掛けて,ただ時間を掛けるにしてもですね,じゃあどれだけ待つのかっていうこともあるとは思うんですけれども,その間にテクノジーどんどんどんどん進化していくじゃないですか。

ひょっとしたらスカウター型の視線入力装置何かもできるかもしれないし,また脳波を検知してその中からこの子はどんなことを考えてるのかなぁなんてことが分かるかもしれないじゃないですか。そこまでの間にやっぱりできることを一つでも増やしていきたいっていうのは教員としては思うとこなんですよね。

<中邑> 1:31:03

いや,先生それは違う。やっぱり僕たちの認知や知能の発達っていうのを考えていかないと。そこがやっぱり,いくらテクノロジーを使ったって理解できないものはできない。

<福島>

それこそ30年ぐらい前の今でいうSMAの子たちですよね。SMAの子たちってあの頃ってもう全然分かってない。本当に今でいう僕らが言うような重度重複障害っていう風に言われてた。

<中邑> 1:31:36

SMAの子は認知的にきちっと発達するだけのポテンシャルを持ってる。

<福島>

そういうのがある程度分かるようになってきたきっかけってテクノロジーじゃないですか。それはやっぱり経験したからだと思うんですよ。

<中邑>

それはテクノロジーだけじゃなくて,先生と親の関わりによってやっぱりSMAの子は育つ子は育ってるわけですよ。

<福島>

もちろんそういうベースはありますよ。ただ,今でこそSMAの子たちって認知的には非常に高いものがあるという風に言われてるじゃないですか。それを明らかにできたことっていうきっかけはやっぱりテクノロジーの活用だと思うんですよね。

<中邑> 1:32:22

いや,それを可視化できたのはそうだと思うんですよ。だけど,それをしなくたって先生たちが視線を指差したりそれでひゅいっとするとかでできた子はいたわけですよ。それがベース。それがあるからテクノロジーをもっていけばすぐできるようになるわけですよ。テクノロジーはそういうものに過ぎない。

<福島>

そういった経験をやってなかったら今のSMAはなかったと思うんですよ。

<中邑> 1:32:51

それはテクノロジーと関係なく先生たちの指導なんですよ。

<福島>

だから僕ら側は教員としてそれをやりたいわけですよ。

<中邑> 1:33:01

それは視線入力じゃないでしょう。

<福島>

先ほども言われましたけれども,視線入力だけじゃなくていろんな入力方法のそのうちの一つとして僕はやっている。

<中邑> 1:33:12

入力方法じゃない。先生たちの体を使った,紙と鉛筆でもいい。そういうのを使った関わりっていうか,そっちの方がフィードバックとして入りやすい。

<福島>

それはわかるけれども,さっき言ったように何時間も子どもがいてずっと抱っこしておくわけにはいかないじゃないですか。それをどうする。

<中邑> 1:33:38

どうもしなくていいんですよ。抱っこしなくたってできる。

<伊藤>

私は部外者なので思うんですけど,例えば学校を見てると担任である時期っていうのは1年とか,すごい限られてますよね。ある担任はそういう濃密な関係を築けてもその次にやっぱ引き継げてない気がすごくするんですけれども,そのあたりっていうのはどういった,同じように引き継ぐべきですけどなかなかうまくいかない現状なんですが,そこはどうすればいいですか。

<中邑> 1:34:08

それは金森さんの責任です(^o^)

<金森>

非常に厳しいところ振られましたね…。そうですよね。仰る通りだし,起きてはいけないことだと思うんですけど,形式的な話をするとそういう指導計画があり,子どもの評価を次の学年に引き継がないといけないし,次の人たちはそれを理解した上で同じことをやらなきゃいけないんだろうっていう風に私は思うけど,現実的にはなんか先生方って自分のやり方が…,言っていいのかな。自分のやり方が正しいと思っているので,他の人が前の人に会ったら,いや私は私のやり方でやりますからって平気で言ってくるんですよね。

<伊藤>

そうですよね。私から見ると,大してやってない人もいっぱいいますけどね。

<金森>

う~ん…。

<伊藤>

親から見ると結局そこで毎回分断が起きるので,そうなると私(親)がってなってしまう。そういう中で視線入力っていう飛びつきやすいものが出てきたから,飛びついてるっていうのは確かにある。

<金森>

私なりの中邑賢龍さんの言っていることの理解としては,認知の表象とか象徴的な機能の発達を一つのハードルを超えているかどうかというところが,今回で言うと視線入力がテーマなので,視線入力を使うかどうかっていうところの一つの指標なのかなっていう風に受け取ったんですよ。福島さんはそこについてはどういう風に思われたのかなっていうところと,そこの積み上げですよね。刺激・反応っていうようなレベルの子どもたちがそこの認知発達のレベルを超えるっていうようなところのステップを超えてないときにもやっぱりやったほうがいいよっていう考えなのかな。

<福島>

そうですね。現状を言うとですね,やることが無くて困ってる先生たちがたくさんいるんですよ。一応授業がみんなあってやるんですけども,ほんとにこれでいいのかなっていう風に悩みながらやっておられるのが,多分特別支援学校の先生の大半だと思うんですよね。その中に入れてって,いいんじゃないかなと思うんですけどね。

<金森>

じゃあ,その前の段階があるんじゃないのっていうのが中邑さんの話じゃないですか。例えばお茶を飲むこともあるだろうし,音楽を聞くってこともあるだろうし。そういうような活動は実はもうちょっと横展開するんじゃないかなっていう,私なんかそういう風に受け取ったんだけど…。その時に変な話ですけど,じゃあこの子は視線入力してもいいよねっていうのも変ですけど,使うぐらいのレベルっていうのをどういう風に評価していけばいいんですかね。そこが難しいのかな。もうここを超えてるよねって。

<中邑> 1:38:05

だから,その視線入力装置が要するに画面上で色んなフィードバックを与えてくれますよね。それが子どもに理解できてるかどうかっていうことが一つの境目になるわけですよ。どう理解できてるか,理解できてるかどうかの評価っていうのはその子どもによっていろいろ変えていけば分かる問題で,そこをやっぱりやらなきゃいけないと思うんですよ。

もちろんさっき伊藤先生が言われたように,もう本当にそういう能力が隠されたまま開花してなかった子どもたちにとってみたら,これは夢のような技術だと思うし,それは僕もとても良いことだと思うし。

だから,とりあえずやってみるのはいいけど,やってみてこれがちゃんと分かってるかどうかの解釈をするだけの力を先生たちが持ってない中でやるのが危険ですよっていうことですよ。分かってる人がやればそれはもうね,これもうちょっと1年後にやってみようで終わるんですけど,そうじゃないとやることないからずっとやっていこう、それがなんか動いた動いたで親も喜んで何も変わってないみたいなことが起きる。

それは特別支援教育でもなんでもない。これはもう要は保育とかそういう遊びをやってくれるところでやればいいんだ。教育ではない。教育はもっとその先の解釈と積み上げがないといけないと思うんですよ。それは文科省が言ってるんですね。

<伊藤>

まさに私たちが作っているアプリについても,私が一番頭にきたのは、授業の時間合わせのために使ってるんじゃないかっていうのが結構あるんですよね。とりあえずやることないから,アプリやってみましたみたいな。そうするとしょうもない質問が来るんですよ。たいていは。確かにそういうのに違和感を感じました。

同時に,中邑先生の話を聞いてて思ったのが,重度障害者を支援する意味っていうのをよく考えることがあって,そう思うと結局重度障害児,本当に重度の場合はあんまり変わらないわけじゃないですか。つまり,我々が人間を理解するための,自分がそういう存在になってくれるのかという意味があるのかなと。我々が人間を理解するための素材って言ったらいけないんですけども,教材になってくれてる感じがします。

上記について,緊張により正しくコメントできていません。本意はこちらです。(伊藤より)

https://www.poran.net/ito/archives/10625

<中邑> 1:40:20

いや先生,それはちょっと僕は言い過ぎかなと思ってて,やっぱり確かに先生に理解する上にあれなんだけど,やっぱり彼らの微小な変化っていうのをうまく取り出してうまくフィードバックしたら彼らから返ってくる分が見つかるわけですよ。

これが僕たちの教育の喜びだし子育ての喜び。やっぱりこういう子どもたちっていうのは福島先生も言われるように起きてる時間も短いし,関われる時間が本当に少ない。だからこそ親御さんとともにやっぱり教育ができるような仕組みを作っていかなきゃいけない。だけど,親御さんも働いているからそんなに負担をかけないようにしなきゃいけないし,だから僕たちの子育てロボットっていうのを作ろうとしてるわけですよ。

福島先生がまた突っ込むかもしれないけど。それはもう一日数時間我々が作る子育てベッドに寝てたほうが,子どもは適切にフィードバックしてもらえていいと思ってる。そういうものが必要だろうっていうことで今,基礎データを取ろうとしてるわけですけど,それプラスやっぱり今の教育制度の問題ですよ。

これはもう金森さんの問題ですけど。なんでみんな朝一律に同じ時間に行って帰らなきゃいけないんだ。もう特別支援学校の先生は勤務時間自由!「深夜2時に起きました」っていったら不眠症の教員が「はーい分かりました。今から行きまーす」って言って深夜2時に子どもを3時間ぐらい遊んで教えて帰ってくるぐらいの,これぐらいのフレキシビリティはいるんじゃないかなって,思ってるんですね。

<金森>

なかなか難しいな…。難しい問題ですね。

<中邑> 1:41:58

難しいですか?だってその代わり日中は遊んでていいんですよね。一日3時間勤務でいいですよ。って言ったらどうだろう。

<金森>

それでも教員であるべきなんですよね?それは。

保育士でもないしセラピストでもなく。

<中邑> 1:42:14

教員!だからさっき言ったような認知の発達についての理解と子どもの見立てができる人ですよ。そういう人たちはもう本当に特別な裁量権を与えられて,その子どもたちの家を回っていくとか親御さんにアドバイスをするという立場に変わっていくっていうぐらいの根本的な改革をしないと先生たちも6時間子どもと一緒に過ごすってなにしようみたいなね。

だから僕はいつも昼寝しなさいって。でもみんな怒るんですよ,昼寝なんてとんでもないって。子どもと昼寝したらよく分かりますよ。一緒に寝て手を繋いで寝てたら,ゴソゴソするとかね。こっちが寝てしまったら「あぁー」って声が出てるとかね。それがダメだったらビデオで撮ればいいじゃんって思ってるんですよ。

つまり僕らが抱っこする代わりに布団がセンサーになってるわけだから。布団がその子らの動きに対して適切なフィードバックを返したほうがいいじゃないか。それでいわゆる適切な応答性を学ぶと因果関係の理解に深まってっていうところまでくるかなと思ってるんですよ。

だけど,それが言語理解の獲得っていうところまでは僕は言わないですよ。でも最低限応答性の成立ができたら親御さんも嬉しいし,子どもにとっても便利だし,受け入れと拒否と人を呼ぶくらいの反応を引き出してあげたいなって僕は思いながらやってます。たぶん伊藤先生の技術を使えば僕はできるんじゃないかと。今度先生,一回なんか技術的な議論を。

<伊藤>

僕の方でわかっているのは,私学生何人か障害者のところに泊まりに行ったりしているんですよ。1日過ごすと確かにわかる。そうするとアプリケーションどうしようかといういろいろなヒントになるので,それは教育においても同じなのかな。私は重度訪問介護ヘルパーの資格があって,直接触れるのが好きなんですよ。だからこそこういうことをアプリケーションの分野でするんですけど。直接触れ合って,一緒に過ごすというのはすごくいいなと思います。

けど同時にこれは一つ質問なんですけど,私そもそも視線入力だけをやっているわけではなくて,もともとコミュニケーション支援をやっていて,ある時支援学校に言ったとき,本当に超重度の子。私が見る限り超重度の子。握ると例えば3秒間振動するようなものを持っていったんですけどね。そうすると握って振動して,3秒して止まった後にまた握るんですよ。調整できるようにしていて,例えば10秒にすると,ちゃんと止まったら握る,止まったら握るということを時間に関係なく反応したんですよ。

そうすると,相当に重度な子でも振動に対しては反応が良いのかなという思っていて。そうなると,視線入力と振動を合わすことによってただ視線の動きだけではなくて振動のフィードバックによって変わるのかなと思ったんですけど。その辺りってやはり視線入力だけでなく,いろいろなフィードバックを連携させ,ハイブリットにしていく方がいいと思うんですけど,その辺りはどういうものですかね。

<中邑> 1:45:30

振動とかはとてもいいですよね。あと揺れとか。あと臭いですよね。臭いは拡散するから難しくて。振動とか揺れとかはとても良い刺激だと思います。さっき言われてた握ると3秒間ブルブルと動くんですか?

<伊藤>

そうです。

<中邑> 1:45:55

握ると,それでまた握ると。逆にもうそれが動かなくするというのを遠隔でできたら,何回試していけるか。それをすることで注意の持続というのがわかることができる。何秒間のリレーならこの子は我慢できるか。こんな風な評価装置なんかを伊藤先生と作っていけたら,たぶん先生方はもっと面白いものができるのではないかと思います。

<伊藤>

例えばそれが握るという物理的な動きでなくても,視線であってもそれは場合によっては良いわけですよね。

<中邑> 1:46:32

視線というのはですねさっき福島先生にも言ったんですけど,フィードバックとしてはとても難しいんですよ。

<伊藤>

だから視線であるところを見た結果,それが振動するという連携になっていれば。例えば,押しボタンスイッチではなくて入力に関しては視線でもいいのかなと思うんですけど。

<中邑> 1:46:52

えっと離れたものを,自分のやったことで起こっていると理解することは…。音は比較的に定位しなくていい。視覚ってどこで起こったか選ぶってとても難しい。明かりが消えたりついたり,そういうものはすごくわかりやすい。

テレビの中で何かアニメがぴゅっと出てくるというのはとても難しい。視覚的にも障害を重複している子どもさんにとってしてみると難しい部分があって。それよりは暗い部屋で部屋の明かりがつく消えるといったところからやっていかないと。

ただ,それが子どもにとって魅力的なものでないと,あんまり面白くない。そこのところが非常に難しいところがありますよね。ただ,音というのは比較的入りやすい気がします。あと振動も。

<伊藤>

振動はすごく注目していて。

振動スピーカーとか普通のモーターもあるんですけどね。どういう振動が一番心地が良いのか,フィードバックとしていいのか。今一番関心のある点ですね。

<中邑> 1:48:09

ただバイブレーターというのは,どちらかというとむず痒くて気持ち悪い。

<伊藤>

音楽とか。

<金森>

あと10分くらいなので,今日せっかく来ていただいているのでフロアの方々からの質問を貰いたいなと思うんですけど。ご質問ある方,マイクが前にしかないので申し訳ないのですが,手を挙げていただいて,前きて質問をしていただけたらなと。意見でも全然構わないのですが。

はい,いかがでしょうか?

<質問者>

すみません,今日はありがとうございました。

自分も学校で視線入力を入れているのですけど,それをすべての子にはしない。やっぱり先ほど言われたのですが,明確な基準はないんですけどやっぱりわかっているかなわかっていないかな。この子はわかっている,この子はまだまだ。給食で子どもの期待反応を促すように遊ぶんですけど。自分は遊ぶっていうんですけど。

遊びをやった上で,発達を促していこうかなとって思います。視線入力は自分もいいと思って実際やって,ある程度の子どもの思いを出せないというか,体が不自由で力が入っちゃう子が本当に好きかどうかは分かんないけど,どっちかと言ったらこっちがいいとか,少しでも発信できるようなスキルを身につけさせるためにはすごくいいと思ってやってます。

少しぐちゃぐちゃして申し訳ないのですが,聞いて少し安心したという。自分がどんどん進めないのはやっぱりそこがあってやればいいということでもないし,それをすればいいということでもない。やっぱりそこが少し思っていてモヤモヤしていました。

今日は解決はしていないんですけど方向は見えたなと思います。

<金森>

質問とかはいいですか?

<質問者>

質問ですか。因果関係を学ぶというかそこもわかってほしいなという狙いでやるんですが。遊びで抱っこしてやったりとか,耳元で囁いたりとかするんですが,それの一つとして視線入力やスイッチをするんですけども。因果関係の理解に必要なツールの一つとして捉えているのですが,よろしいでしょうか?

<中邑> 1:52:09

視線入力は必要ないですよね。フィードバックがわかりにくい。

それはやっぱり人間が目の前に置いて。先生,選択をさせるという場面でもね。どっちにするという選択はとても難しいんですよ。例えば,これとこれどっちにするという時に皆さんだったら烏龍茶と炭酸水だって分かるから,こっちとかこっちとか言えるんですけど(下図)。

わからないんだったら見ればいい。見て分かるというのはこれはこういう味で,これはこういうシュワシュワしたものだという風に結びついてる。だから選べるわけです。それができていない子はどうすればいいか。一個ずつ飲ませるしかないわけですよ。これ飲んでウエーってやるこれ飲んでゴクゴクってやれば,あーこっちはいいんだねっていうそのレベルのことが実は重要で,それをやってると次第にこの見た目と味が結びついてくるというわけじゃないですか。

それである日突然こっちを見せたら見せた途端に,ウエーってやると分かるようになったということになるんですね。炭酸水いるってやってうー(首を振る)ってやったら今度は言葉と結びついたってことが変わるわけですよね。そのレベルのやりとりっていうのが現場でほとんど行われていないわけですよ。

先生,言えますか?

もちろん今は,経管栄養の子どもとか多いわけですから,なかなかそういうことができないという状況もあるんですけど。音楽なら音楽でどっちが反応が多いですか。っていうのがわかりますか?視線で何かを選ぶよりもそういうことが先なんですよ。

<金森>

いいですか?

<伊藤>

私もまさに同じ授業を見たことがあって、1デシリットルと1リットルでどっちが量多いでしょうっていう場面で,実際に持って重さを感じたことがないのに選ばしてると。

数字上,こうだとわかっていてもその子にとっては何の意味もないかなと思ってて,そこで視線でやっていると。逆にそれさえ分かっていれば,視線入力で選ぶこと自体はいいのかなと思うんですけど。

<中邑> 1:54:45

そうです,そうです。

それは簡便ですし,楽ですし,それは間違いないです。

<伊藤>

ポインティングデバイス的に使うのであれば。

<中邑> 1:54:53

これはあくまでポインティングデバイスとして使うのであればいいです。

<伊藤>

私は部外者として見ると,そういうところは教育の専門家だから当然手当てするものだと思っていましたが,意外とやっていないということですか?

<中邑> 1:55:05

やってないでしょうね。

ねえ,金森さん?

<金森>

すみません。

<中邑> 1:55:10

これ今金森さんの責任にした。

<伊藤>

感覚統合という言葉も,ここ10年こういう分野でやっていて初めて聞いた言葉なんですけど。

<中邑> 1:55:25

あれもだからね,促せばみんな何か変わるよみたいにいうのですが(首を振る)。それは他の子は自分たちが走り回ってでんぐり返ししたりしながら,やっぱり育っていくから,それをやってあげようということなんですが,能動的にそれを体験していくことと,受動的にそれをさせられることの質は全然違うこともやっぱり理解されてないですよね。あれが全く効果ないかと言われれば,発達を促進させるという意味では,僕はあるとは思うんだけど,だけどすべての子にあれをやればどんどん変わっていくかと言われれば,ちょっと言い過ぎですよね。

やることがないからやってる。はっきり言って。やることがないんだったら学校縮小しましょう。それで親御さんが大変だったら子どもを預かって快適に生活してあげる方がいいじゃないですか。だから東京には介助員制度ができたじゃないですか。学校の先生の方が給料高いし。

福岡もそうなっていってるんですかね?

やることがないんだったらいいじゃないですか?3時間の非常勤でいい。

<伊藤>

中邑先生に聞きたいんですけど,これ親が聞いているから聞くんですけど。あのやっぱり支援学校に不満を持っている親は非常に多い。

だって放置されている時間多いし,やることがないから分からないんですけど刺激が少ない。であれば,普通学校に入れた方がいいんじゃないかと思っている親御さんは非常に多いですね。

<中邑> 1:57:12

だけど刺激は逃げられるというが重要なんですよ。いわゆる過敏性のある子どもは通常学級では大変ですよね。そこは逃げられないんですよ。やっぱり刺激が選択できない。

静かなところで効果的に刺激を与えてあげなくちゃいけない。そう考えると支援学校はとってもいいんだけど,結局今の特別支援学校というのは朝の会を見ていれば分かるけれど小さな一斉指導になっているわけですよ。

それよりは変わりばんこに子どもがやってきて3時間ずつ授業を受けて帰ることの方が,まあ,帰らなくても今度は保育士さんとゆったりと過ごすとかね。そういう時間があった方が実は彼らにとっては刺激がきちんと入っていくんではないだろうか。発達がね,十分でない赤ん坊を朝から晩まで起こしてワーワーワーワーやるのかと言われれば違いますよね。寝る時間も重要ですよね。ここのところは僕もよく分からない。どれくらいの刺激をね,入れてあげたらいいか。

だけど,なんでも入れればいいというわけではない。福岡空港で煩くて煩くて,なんでもうこっちですばっかエスカレーターいってんだよ,どこ行ったって静かなところがない,あの状態ですよ。はっきり言って。電話かけるのにうろうろして結局静かな場所はなかった。という学校ではいけないなと思うんですよね。

ちょっと話がだいぶ脱線しましたけど。

<金森>

そうですね。そろそろですね一応時間がちょっとあれなので,最後に賢龍さんから最後に結論ではないんですけど,こう一番伝えたいことというのを言ってもらって逆順番から戻していただきたいなと思うんですけど。

<中邑> 1:59:10

僕はもう十分言いましたから,金森さんから文科省にこういうことを言ってやるということをここでちょっと宣言してもらって。そうですよ。絶対その方がいいです。

<金森>

難しいな。

<中邑> 1:59:29

特支教育学会に言ってろうとかね。研究変えようよとかね。

<金森>

重度重複障害のある子どものやり方をある意味いわゆるそれ以外の障害のあると言われる子どもたちと同じ形に揃えようとしてるというのが子どもたちに対して無理があるのではないかとと思いますけどね。

そこが我々はどう捉えるのか,っていうところを考えないといけないなと思います。

<中邑> 1:59:54

その時に親御さんの気持ちを僕たちは十分組んでいかないといけないなと思います。それは子どもたちがもう可能性がないから放棄しているのではなくて。それは積極的にそのゆったりする時間がいるんだというところを僕たちは言っていくべきなんだと思います。そういう研究をやるべきですよ。

<金森>

分からないですけど。

<中邑> 2:00:17

おかしくないかな?それ言おうよ。金森さん理事じゃなかった?

<金森>

いや,私は全然。

<中邑> 2:00:21

誰に言ったらいいんだろうね。これね。また,いらんこと言ってしまった。

<金森>

あとは福島さんと伊藤さんに言ってもらって,一応終わりにしたいと思います。

<福島>

私の方からは賢龍先生は昔と変わっていないなという印象があって。とってもコミュニケーションのベースとなる快不快の話から始まって認知理解のね。やっぱりそこのベースがないと使うのはいろんなテクノロジーの危険性があるということは今日は言えたんじゃないかなと思います。

それと,いつも刺激的なことを聞かせていただくのですが,まあ,特別支援学校はもうなくなってもいいというような話であるとか,重度重複障害の子どもたちの教育のあり方をもう少しフレキシブルにやっていいのではないか。それは僕もよく思うのですが,現場の人間としてはどうしようもない,お手上げというのが実際のところですね。

僕一人がそれを言ったとしてもまず学校は変わらないですよね。で,じゃあ,どうすればいいのかっていうのがさっき言っておられた東京学会であったりとかどっかで議論しなくてはいけないのではないかなと思うんですけどね。けど,たぶん議論の土俵に上がらないのではないですかね,今の日本の教育界の。

<中邑> 2:01:54

みんな,重度障害の子は不登校であればいい。フリースクールやっている福島さんのところに行って教育を受ける。

<福島>

それいいですね。

<中邑> 2:02:10

いいでしょう?海外なんかね不登校の子どもがいる学校は何人かで学校の予算を削るんですよ。いい考えでしょ?

つまらない教育をやっている学校には親も拒否して行かなくなって,その予算は削って,真っ当な教育をやっている私学だったりフリースクール的なところにおとす。金森さんぜひ。

<金森>

そこまで広がらない。

<伊藤>

今日はどういう風にバッサリ言っていただけるのかなと楽しみに来ましたので,ある意味私にとっては非常に良かったです。それでやっぱり足りないなと思ったのは改めて人間の認知の部分を見て,今日はあくまでも視線入力という切り口ではあるんですけど,そこの切り口から見て,ちゃんともう一回捉え直していきたいな思いました。

そうでないと,確かに犠牲者を産んでしまうのではないかと思います。今日,これを観てショックを受けられたお母さん方もきっとおられるでしょう。そういう方ともお話ししながらとりあえず,視線入力という切り口ですけど勉強していい成果を出して,中邑先生に見せて,こういうことをもあるという風に報告したいなと思いました。

<中邑> 2:03:32

そうですね。

<金森>

ありがとうございました。

最後にまとめ的なことを伊藤さんに言っていただいたので,私としてはまとめがなかなかできなくて,中邑さんからは,お前が動けということをプレッシャーを感じながらですね。今後どうしようかな。明後日はまた文科省の会議があるんですけど。

<中邑> 2:03:56

おっと,素晴らしい。

<金森>

そこでこのことを言えれるかどうかはちょっと自信がないのですけど,今後も考えていきたいなと思います。みなさん,ありがとうございました。