あたりまえの証明

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これ以来,一年ぶりの訪問でした。

真夏のほのさん(2015年7月31日)

長野からの帰り,おぎのやの釜めしを買ってほのさん宅へ。
東北自動車道を見下ろすマンション。

ほのさんは成長期ですからね,ちょっと大きくなったようですが,髪の毛も長くなっていたからか違いに気づかず。。。
とりあえず,お母さんの理佐さんと釜めしをモリモリ。
小さく見えて意外と量のあるこの釜めし。
地味な味だし,謎の茹でた?アンズが入っていたり,ご飯に対しておかずが少ないような気がするけどたまには食べたくなります。
(あ,あの面倒な食べガラを放置してしまいお手数おかけしました!)
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今回の訪問の収穫のひとつはこの振動まくら。
ほのさんは痰を出すために使っているようでした。
かわいい顔してけっこうな振動です。
電池で動くようですが,ACアダプタ&スイッチ化すればいいおもちゃになりそうです。
さっそく,アマゾンで6個注文!

理佐さんとはほとんど同い年なので気楽ですね。
まずは,去年から検討していた「ほのさんのコミュニケーションのエビデンス取り」についてお話し。
特別それを話題にする必要もないのですが,ほのさんとお母さんのコミュニケーションを見ているとやっぱり気になるのです。
正直,私にはほのさんの呼吸器を通して聞こえてくる声の違いがわかりません。
違いのわからない男なのです。

慣れている作業療法士さんはわかっています。
他人でもわかっているなら計測器で検出できるはず!
唾液ストレスマーカーと高解像度マイク,環境の状態を記録する全方位カメラなどで,ほのさんの意思表出を検出できますね。

と,他人の私はそう考えてしまいます。
ほのさんが意思表出する事実は,お母さんにとってはあまりにも当たり前すぎること。
毎日毎日お話ししているわけですから。
それをわざわざ小難しく検出してエビデンスにする必要性はないのです。
水が高いところから低いところに流れることをあえて他人に証明しないように。

一方で,ほのさんの障害程度の場合,意思を表出することはないというのが定説です。
医師もそのように接します。
そう考えれば,やっぱり当たり前でも証明する必要があるのです。
私もきちんと知りたいですし。

当たり前を証明するっておかしなことですが,今の社会システムは客観的なエビデンスがモノをいいます。
生命現象さえ明らかにできていない現代科学が牛耳っている社会ですが。

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