【終戦】岩手日報201906「風土計」戦線

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泣きわめくわが子を前にしても、なぜ泣いているのか分からない。親のもどかしさは、いかばかりだろう。一関市で先日あった重度障害者の支援セミナーを取材して、そんなことを思った
▼その解決策として紹介された新ツールが視線入力装置。画面に表示された文字を見ることで、その文字を入力できる。「あ、た、ま、い、た、い」。文字をつなぐと、その人の意思をくみ取れる
▼文字や言葉も分からない障害者もコミュニケーションできるのか。講師を務めた伊藤史人・島根大助教の答えは「重い知的障害の場合は無理です」。ハイテク機器をもってしても、越えられない壁はある
▼身内にも重度障害者がいる。今春、特別支援学校中学部に進んだ。喜怒哀楽を表すのがやっと。腹に開けた管から栄養を取って毎日を送る
▼一生かかっても「お母さん」と呼ばれる日は訪れないだろう-と分かった瞬間の母親の絶望は筆舌に尽くし難い。それでも、とうに覚悟を決めた母親から一度も泣き言を聞いた記憶がない。「障害児は育てられる親を選んで生まれてくる」。この言葉は本当なのかもしれない
▼サリバン先生の熱意が結実し、ヘレン・ケラーは「ウオーター」と叫んだ。そんな奇跡は起きないのだろうか。ある日、突然「お母さん」と。それがかなわぬなら、せめて泣き顔の理由だけでも。

岩手日報「風土計」2019年6月16日

この岩手日報「風土計」の2019年6月16日の宣戦布告記事をめぐって一悶着ありました。記事の内容が確かにおかしいのです。私が言ったとされるコメントは,明らかにたちの悪い意図的な切り取りが行われていたからです。

所属を明記した名指しでしたから,その衝撃はなかなかのものでした。

こら、岩手日報千葉さん。妙な文脈で切り取るな!

Visits: 1265去る6月9日の日曜日,岩手県一関市の清明支援学校で行った重度障害者のコミュニケーション支援セミナーで,岩手日報の千葉氏から取材を受けました。 さらに,…

私は見かけ上怒ってはいますが,日本には「表現の自由」がありますから,事実と違うことのみを指摘させてもらいました。記者の見識については取り立てて気にしてはいません。

しかし,障害当事者の家族や近い方たちの怒りは凄まじいいものでした。以下に,特に熱いメッセージを転載します。

岩手日報様
我が家には重度の重複障害児がいます。
喜怒哀楽も示せず、やっぱり、「お母さん」と呼ばないかも、と思っていますが、その代わり、このように思っています。
「お母さん」なんて言葉はすっ飛ばして、いつかこんなことを伝えるだろうって。
「ちょっと世界旅行の計画をたてているんだ、ママ、手続きしてくれる?」。または、「鳥の勉強を、しようと思う。大学にいこうかな」って。
そんな、明るい未来を、リアルに描くことができるようになったのも、ひとえに、伊藤 史人 氏のご講演を聞いたからです。どうぞ、事実と正反対とも取れる文章で、この、実際には希望があふれ始めた世界を、世の中に間違ってお伝えになりませんように。まだ悩み、迷っている当事者の方々を、あえて従来通りの「悲しみに満ちた世界」に、お閉じ込めになりませんように。
当事者の方々も、どうか、このような記事を、真に受けませんように。
重度障害児者の未来は、これまでより、確実に、明るくなっています。
伊藤先生を筆頭に、多くの、支援してくださる方々のおかげです。

高取 れお奈 さん(保護者)

表現は言葉だけではない。
意思疏通もしかり。
この方は、言語化に重きを置いているのでしょう。
それでは、身内の方の気持ちは理解できないと思います。言葉でなくても、感じる事は何かしらあるのです。

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当事者の母は、泣き言を言うことより、先にやんなきゃいけないことが山積みなんです☝
「育てられる親を選んで産まれる」って言う人は、「私には無理」って言っているようなもの。

でも、この記事の中に書いてある、サリバン先生のような教師が少ないのは、事実なんだよね😢

Shinobu Seki Takeda さん(保護者)

えっと・・・。誤解を恐れずにここに書かせていただくと、この取材をされた方が、「障害」、特に「知的障害」に対して偏見をお持ちなのではないかな・・・と思います。
私は、「障害児は育てられる親を選んで産まれてくる」という言葉を、何も知らない第三者からは言われたくありません。あなたに何がわかるの?と返したくなる・・・・。
残念です、悲しくなります。
伊藤先生が、重度の肢体不自由の方へのコミュニケーション支援からさらに一歩進んで、重度重複障害の方への支援に足を踏み入れていることを嬉しく思っているところに、この記事は、ないですよねぇ・・・・。

佐々 百合子  さん(元保護者)

色々なメディアありますが、仮にも新聞なら正しいニュアンス伝えて欲しいですね。
先入観と特定の方への思い入れのみで書かれているかと。
多くの親が希望を持って聞いた、会場の雰囲気がまるで取り上げられていないのは「伝える」仕事をする人間として未熟だと思います。
自分も小さいコミュニティとはいえ情報を「伝える」立場にありますので、独りよがりにならないように気をつけたいと思いました。訂正と謝罪が欲しいレベルです。

吉田 桂子  さん(保護者)

言いません。絶対。伊藤先生は無理だなんて言いません‼️言ってません‼️どうしてそうなったのか、聞き間違いとも思えず、何か外力があるのか❓と勘ぐりたくなります。
どんな時も子供達に寄り添い、その利益のためには自分が盾になり、学校に改善を求める為に一人で悪者になって戦ってくださってます‼️
もし出来ないならわざわざ講演会やセミナーを自腹切ってまで全国でやったりしません。
あんなにみんなが楽しそうに、体験会をしていたのに何を見て、感じていたのか、何を聞いていたのか、全くもって理解できません。
あのキラキラした素晴らしい時間を侮辱された気がして許せません。

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長文にて失礼します。
私も抗議文を送付した後お昼過ぎに、謝罪と回答として電話いただきました。直実先生のおっしゃっていた通りで、伊藤先生に取材した話の受け取り方が、真意とは別のものになっていたと理解しました。
身内の子が重度の知的障害があることで、他の人より理解があると自負していた部分がある意味、良くない方向への理解となったようでした。
残念ながら障害児・者に対する意識や、理解は本人が思ったほど深く無かったようです。コミュニケーションについても、どうしても発語や識字へのこだわりが強いようで、それ以外でもコミュニケーションは取れるというような事さえご存じない様でした。言葉や識字にこだわった方法以外も沢山の方法がある事、それぞれのレベルにあった方法を取る事が最善である事も理解されていない様でした。
記者ですから当然なのかも知れませんが、言語や発語という、健常者向けのコミュニケーションが当たり前という見識だった様です。
当日我が息子が視線入力を巧みに操り、言語を使ってコミュニケーションを取っている姿を見て、訓練さえすれば同じ事が誰でも出来るようになるのか❓と伊藤先生に質問した様です。会場では息子の場合は特殊な例だとちゃんと説明したはずなんですが。
そこをゴール(目標)にするのはさすがに厳しいし無理だと言う言葉が、「重度の知的障害には無理」と、かなり説明を省略した形で書かれたようです。話した限りの感じでは、本人に悪意は無かったとは思いますが、新聞という不特定多数が読む、書いてある事は真実であると思われるであろう媒体で、いくら少ない文字数でまとめるとしても、個人の意見を書くコラムだとしても、他人の名前を出して書くなら誤解のない様に書き込む事が仕事ではないか?いくらなんでも端折りすぎで、これでは意味が変わってしまうし、誤解を生み、抗議が出るのは至極当たり前で、配慮が足りなかった旨伝えました。
言った言わないの水掛け論ではなく、言葉の真意が伝わってなかったのです。言葉で「無理」と書ききってしまうと永遠に出来ないという印象が強くなると思います。
文字を書き連ねるという事は、書き手の真意がきちんと伝わらなくてはならないと改めて思いました。そして、現場で視線入力を実践して見せる事は絶対にいい事だと信じていましたが、そこ(文字入力)に固執して、そこをゴールと見据えてしまう方がいる事、そしてそのゴールに届かないと感じた時に敗北感や劣等感、落ち込みまでも生んでしまうということも今回の一件で感じました。
希望が一転して闇黒へ落ちてしまう位なら、現場で実践して見せる事は悪になるのではないか?とさえ思いました。
訂正したコラムが今度こそ正しい情報と認識、理解で書かれ、不特定多数の人に誤解を生むような文章にならない事を祈りたいと思います。

原田 美代子 さん(保護者)

「・・・無理です」という言葉は伊藤さんから聞いたことがありません。むしろ我々教員の多くがさしたる根拠もなく「無理」と言っているのをバッサリと切り込むような方です。
この記事は脚色された作文にしか見えません。あの日の体育館の空気を感じていた”普通”の人はみんな伊藤さんの「本当」がわかっているはずです。
「報道」する立場の方は”伝達者”であってほしい。”表現者”を気取りたいなら別なところでお願いしたい。自分の一言がたくさんの「希望」を「絶望」に導く責任をしっかりと受け止めてほしい。

林崎俊男  さん(養護学校教員)

当事者の家族として、怒りを通り越し、悲しくなりました。
私は伊藤先生がそんなことを決して仰らない方だと知っているので希望を持っていられますが、伊藤先生をご存知ない方にとってはあまりに厳しい文言です。

喜屋武 良江  さん(当事者家族)

当日伊藤さんが講演された内容とは全く異なっていること、会場にいた当事者親子は講演と体験会でわが子に希望を持ち帰られたことを岩手日報にメールしました。
一関にいる記者が、記事に表れる障害観を持っているかと思うと、恐ろしくなりました。
伊藤さん、ごめんなさい😢

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岩手日報 NIE・読者部御中

6/16掲載の風土計を読み、残念な気持ちでいっぱいです。 私は一関でのセミナーに参加していた、重度重複障害児の親です。

あのセミナーでの伊藤先生のお話は、どんなに重い障害があってもわかっていることがある、それがわかることができるという希望に満ちたお話でした。

わが子の可能性に感動して笑顔いっぱいの体験会の親子の様子を記者は感じ取らなかったのでしょうか? 重い障害の子はかわいそう、そんな子を持つ親は悲惨だ、といった内容の記事は大変不快で強い憤りを感じます。 言葉だけがコミュニケーションと考えておられるのは残念です。

私たち重い障害を持つ子の親は、表情はもちろん、視線、声、体温、呼吸など、わずかな変化からわが子のことを知ろうとし、それをもとにコミュニケーションをとり、愛情深くかわいがり育てています。 ゆっくりゆっくりではありますが、確かな成長に喜びを感じ毎日を過ごしています。 それをテクノロジーの力ではっきりとしたものにしていこう。わかっていることをわかることができる。というのが今回のお話だったと参加者のほとんどが感じていたはずです。

それを奇跡以外方法がないという文脈は、絶望以外の何物も感じさせません。 一関でのセミナーの開催意義を台無しにした記事には残念でなりません。 それを掲載された岩手日報にはつくづく落胆いたしました。

何より講師をなさった伊藤史人先生の意図とはまるで異なります。 ぜひ先生には謝罪をお願いいたします。 岩手日報という県内有力紙の持つ影響と責任を感じていただきたいと思います。

三浦 かおる さん(保護者)

NIE・読者部
ご担当者様

お忙しいところ恐れ入ります。
一般社団法人結ライフコミュニケーション研究所の高橋宜盟と申します。

6月16日の「風土計」に書かれていた次の内容に関してご連絡しました。

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文字や言葉も分からない障害者もコミュニケーションできるのか。講師を務めた伊藤史人・島根大助教の答えは「思い知的障害の場合は無理です」。ハイテク機器をもってしても、越えられない壁はある
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私は日頃から、伊藤さんのお話しを聞く機会が多くありますが、伊藤さんは「どんな重度の障害があっても、過小評価せずに接し続けること」を訴え続けてらっしゃいます。しかし記事の内容は表現が真逆でした。彼は「無理」という言い方は決してしないことから、多くの人の支持を集めています。
記事の内容とは異なるので、その点が気になり、メールをしました。

私もコミュニケーションに関する講演を行うことが多くあります。「諦めない・決めつけない」という内容を私はお話しすることが多いです。その時にいつも考えるのですが、自分の子どもの可能性を諦めている親は一人もいないと私は思います。諦めてしまいそうになるのは世間の不理解と心ない対応についてです。

記事を書かれた方には、お身内に障害のあるお子さんがいらっしゃるとのことですね。記事中には「とうに覚悟を決めた母親から一度も泣き言を聞いた記憶がない」と書いてありました。記事を書かれた方のお身内の方は、間違いなく素晴らしいお母さんだと思います。そのお母さんは諦めていない・決めつけていないと思います。しかしこの記事は「世間の不理解と心ない対応」そのものになっていると私は感じました。

記事を書かれた方は、日頃「世間の不理解と心ない対応」を肌で強く感じてらっしゃるのではないかと私は思いました。そしてそれに対して諦めているのではないでしょうか。もしくは、下手に希望を持つよりは最初から希望を持たない方がいいと思ってらっしゃるのではないでしょうか。
当事者でなければわからない、周りが格好つけて何を言っても意味がない、と主張する人に出会ったことがあります。当事者しか当事者のことはわからないのは当然だとしても、理解しようと思っている人に対してそう言い捨てることは、理解し合おうとしている人たちに失礼であり残念なことです。そして、世間に対して諦めてしまうことは、その障害のあるお子さんの夢と希望を消すことになると私は思います。そしてそれは、お身内のお母さんの思いではないと私は思います。

記事を書かれた方が、これまで苦労されたり、いろんな思いをされたりして、お考えになることがたくさんあったと推察しますが、今回の記事に関しては、伊藤さんの意見の内容とは異なる引用の仕方をして、さらに読者の希望を失わせたことは、非常に残念です。

私はご縁あって、病気や障害でコミュニケーションが取りづらい方や家族、支援者の方たちと出会うことが多くなりました。私にはまだまだわかっていないこともたくさんあります。しかし、わかっていないということは、希望がないということではありません。

是非、もう一度記事を読み直していただき、伊藤さんの言葉の引用は正しくした上で、読者に希望を伝える記事を出していただければと願い、メールをしました。

ご不明なことがございましたら、いつでもご連絡ください。

高橋 宜盟 さん(開発者)

岩手日報 ご担当者様

2019/6/16「風土計」伊藤史人 氏に関する記事について、訂正お願い申し上げたい箇所があります。

記事に、文字や言葉も分からない障害者もコミュニケーションできるのか、という問いに対して伊藤氏が「重い知的障害の場合は無理です」と返答したと書かれておりますが、これは言っておられません。
伊藤氏に再度ご確認の上、どうぞ速やかに訂正等、御対応お願いいたします。

我が家にも重度の心身障害の娘がおります。
彼女は話せず、歩けず、自分の思ったように体を動かせない難病です。
一見何もわかっていないように見え、発達テストを受けると生後半年位の知能、と診断を受けたことがあります。

けれど、幼稚園の時に弱々しく微かにに動いて字を書く彼女の指先を読み取る「ゆび文字」を習得し、教師もゆび文字コミュニケーションを習得してくださり、小学校、中学校と普通の通常学級で1人車椅子に乗って普通に勉強しています。

娘は毎日「ママ」と書いて呼んでくれます。

こんな風に娘が育つことができたきっかけは、私が娘が2歳の時、同じ病気でゆび文字ができて大学生になられた方の投稿記事を読んだから、です。
娘にもできるかもと思い希望をもったのです。

その記事を読まなかったら、そんな人がいることも知らず、指で娘と話せるなんて思いもよらなかったと思います。
コミュニケーションが今も取れていなかったら、私たちは娘のことを「生後半年の赤ちゃん程度の知能」と今も思っているはずです。
でも実際は、現在娘は公立中学校で数学の平方根、2次方程式を解いています。

それほど、世間に対する文章の力は大きく、人の人生を変えてしまう力があります。

聞き間違いはあることと思います。
どうか事実と違う箇所は訂正をお願いいたします。
どうぞよろしくお願いいたします。

Yuri Horie さん(保護者)

岩手日報「風土計」担当者 様
一関清明支援学校の菊池直実と申します。
i-C”tいわての代表をしております。
6月9日の一関清明支援で行ったセミナーを主催した者です。
今日の新聞記事の「風土計」を読み、大変残念に思いました。
「▼文字や言葉も分からない障害者もコミュニケーションできるのか。講師を務めた伊藤史人・島根大助教の答えは「重い知的障害の場合は無理です」。ハイテク機器をもってしても、越えられない壁はある」
という文章に間違いがあったからです。
伊藤先生は「知的障害の場合は無理」などとは決して言ってはおりません。
むしろ、逆のことをおっしゃっています。
「知的障害があっても視線入力は活用できる」と。
記者の方は講演をまともに聴いてはいなかったのではないでしょうか。
文字入力だけが視線入力の活用ではありません。
視線で意思を表現できる方法があるのです。
講演の中でもお話されていました。
伊藤先生はよく言います。
「どんな重度の障害があっても過小評価せずに接し続けることが大事」と。
私も、以前から何度も言われてきました。
ですので、今回のこの記事を読んだ読者にそう捉えられては困るのです。
間違ったことが伝わってしまうので。
セミナーのスタッフも全員この記事にがっかりしています。
視線入力に携わる教員や保護者もがっかりしています。
これから導入を考えている方にとって、全く良い情報ではありません。
是非とも訂正を願います。
よろしくお願いします。

新宮 直実 さん(支援学校教員)

6月16日風土計について

あのコラムを見てとてもびっくりしてそして失望しました。
セミナーの次の日に書いてくださった記事は完璧だったのに、どうしてこんなことになるんだろうと不思議に思いました。その障がい者観を非常に不快に思いました。

伊藤先生が言った「無理です」は、重い知的障害の方が文字入力はできないことを表しているのに、重い知的障がい者は、ハイテク機器をもってしてもだめで、奇跡でも起きなければ何をやっても無駄と読めるような書き方になってしまっています。伊藤先生が心血を注いで頑張っていらっしゃることを全く否定することになります。今回のセミナーの意味がなくなります。

あなたが、今回記事だけでなくコラムまで書いてくれたのは、それだけ思い入れがあるからでやさしさからだということはわかっています。妹さんを愛していて何とかしてあげたいと思っていることもわかります。でも完全に間違った方向です。あなたは、甥っ子さんの可能性をはじめからあきらめているのです。きっと、妹さん、甥っ子さんは、あなたが考えているように自分たちを不幸だと思っていません。泣き言を言わないのは、子育てが楽しいからに決まっています。自分のこどもは、重い障害だろうがなかろうがかわいいのです。不幸だなんて決めつけられて、迷惑しているに決まっています。もっとおじさんとして、甥っ子さんに関わって、甥っ子さんの可愛さ、愛おしさ、賢さを知るべきです。そして良い子を産んだねと妹さんをほめるべきです。成長を発達を一緒に喜ぶべきです。

もう一度コラムを書くように上司に言われたと言いますが、あなたのセンスが信じられないので本当はやめてもらいたいです。大体にして、あんなに笑顔にあふれたセミナーの空間にいたにも関わらず、講師の先生たちによる子供たちの可能性を信じる貴重な実践のお話を聞いたにも関わらず、それでもあのようなくらーいコラムを書くような感覚の人が、批判を受けたからと言って、すぐに考え方を変えられるとは思えません。

そして、あのようなコラムをあなたがたとえ書いて載せたいと言ったとしても、本来、社内で厳正にチェックする方がいるはずで、その方がOKを出してしまっているというところに一番問題を感じています。

もし、もう一度書くとしたら、重度障がい者に対する感覚をまともに持っている方にチェックしていただきたいです。
ぽけっとの会 千葉淑子

千葉淑子 さん(保護者)

風土計を読みました。とても悲しく思いました。
重度の知的障害、身体障害をもっていても己をもっており、ただただ泣きわめいている訳ではありません。

当事者が一番辛いのです。
言葉として、体からのサインとしてその様に伝わらないだけです。

島根大学の助教の伊藤氏は本当にその様に言い切ったのでしょうか?
いろいろなアプローチがありテクノロジーも有効です。
との内容ではなかったのでしょうか?

記事を読むと知的障害者は泣きわめいて終わる、救いがない。
と取れますがそうなのでしょうか?

板倉不二子 さん(当事者家族)

そして,問題の記事の3日後の6月19日,これらの指摘を受けて,あらたに「風土計」が掲載されました。おそらく,これら以外にもたくさんの抗議文が寄せられたはずです。

またまた,私が名指しされていたのは驚きでしたが,今回の記事はみなさんの意思を十分に汲み取ったものではないでしょうか。

私もこの記事に違和感は感じませんでした。

重度障害者の支援セミナーを取り上げた16日付の小欄に、多くの反響が寄せられた。障害者や家族への認識不足や無理解に対する指摘が胸に突き刺さった
▼セミナーで紹介された視線入力装置という意思疎通の新ツールは身内の重度障害者にも有効なのか。その結論ばかりを求めた揚げ句、「重い知的障害の場合は難しい」という印象にとらわれ、大事な視点を見失っていた
▼障害者の母親が投げ掛けた「あなたは、その身内が不幸でかわいそうと思っているでしょ」という一言は図星だった。「文字や言葉じゃなくてもコミュニケーションはできる」と特別支援学校の教員は指摘する
▼例えば、画面に映したジュースの絵に視線が向けば、のどが渇いているのかもしれない。複数の人物写真のうち、担任の先生に目が向けば、先生を認識していると推定できる。「選択することで意思は伝わる」
▼「周囲が可能性を信じること。できないと思ったら終わり」。この言葉も胸に染みた。重度障害者が秘める可能性を信じられない姿勢こそ問題だったのだと思い知らされた
▼講師を務めた伊藤史人・島根大助教は、重度障害者の知的能力は過小評価されがちで、視線入力は隠れた能力の発見にもつながると説く。国の支援はまだまだ薄い。その至らなさは障害者の可能性を疑う心に通底すると思い至る。

岩手日報「風土計」2019年6月19日

みなさんは,いかがでしょう?

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