「あの日」の盛岡

明日で「あの日」から3カ月。

盛岡の「あの日」は、多くの東北の街と同様に暗闇に包まれていた。

3月としてはとても寒い日であった。

私は盛岡駅西口のホテルに宿を取っていたが、地震と停電のためロビー待機となっていた。

午後6時ころ街に出てみた。

盛岡駅東口の入口付近。毛布はJRから提供されたのだろうか。

非常に寒い。とても屋外に留まることはできない気温であった。

ここにいる人たちは盛岡に出張だったか、運休で取り残されたか、いずれ自宅が遠方の人であろう。

この人たちは今は無事であるはずだが、大変な一夜を過ごしたに違いない。

開運橋の歩道橋から盛岡駅を望む。

この時、私は悲惨な事態が起こっていることなどは知らなかった。

「せいぜい海岸付近が床上浸水したのかな」という程度。

街にも悲壮感はなく、ただ暗闇となったという以外に特に混乱はない。

お店は軒並み閉店している。

大通り商店街ではとある居酒屋が炊き出しをしていた。

店長やオーナーと思われる人が店先に出ていた。

これを売名と取るか、善意と取るか人それぞれだろうが、ここで炊き出しを受けた人には貴重な一服となったであろう。

とにかく寒い夜であったため、温かい食事は大変貴重であった。

ちなみに、私はちょっと恥ずかしくてもらうことができなかった。

「被災者」ではないという気持ちが強かった。

消灯する開運橋。

いつもきれいな開運橋がまったくの暗闇に浮かぶ。

車だけがゆっくり走る静かな大通り。

かつて、このような大通りを見たことがない。

この日は金曜日だ。

しかも、送迎会まっさかりシーズン。

居酒屋にも大量の予約があったろう。

ここに出かける予定の人々もただひたすら暗い家にとどまっている。

多くの人はテレビも見られず、携帯の電源も失い、孤独に震えている人もいただろう。

沿岸の被災者を考えれば、内陸の盛岡などはまったく幸せなものだったということは、後日に明らかになる。

沿岸出身の人はあらゆる手段で実家や友人に連絡を試みたろうが、すべては水の泡となったろう。

そして、私のその一人だった。

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